桜の夜の悪夢:2

 桜並木のほぼ中央に、ひときわ大きな桜の木がある。時刻は既に深夜であるにも関わらず、まるでその空間そのものが光を放っているようなぼんやりとした薄明かりの中、その木は淡い桃色の花を無数に抱えていた。
 空を見上げれば、折しも満月。漆黒の夜空に、煌々と光る大きな月、その光を受けて一層光り輝き闇に彩を添える桜。そのまるで夢の中にいるような幻想的な光景に、アンソニーは思わず溜息を漏らした。
「ああ…ここはいい場所だなぁ……」
「……よかった。まだ散っていなかったな……」
 アンソニーが思わず呟いたのとほぼ同時に、すぐ側で人の声がした。聞き覚えのある声に慌ててそちらを向くと、案の定、彼らが見張っている人物、ナッシュ・ラトキエその人が桜の大木を見上げていたのだ。
(まずい! き…気付かれないうちに……立ち去らなくては!!)
 アンソニーがそう思った時には、もう遅かった。桜を見上げていたナッシュも人の気配に気付き、アンソニーの方に振り向いたのだ。
「!! ……赤騎士…? 昨日と違うヤツだな…」
 この前日、やはり報告書を提出した帰りだったベンジャミンが、うっかりナッシュの前に姿を見せてしまっていた。その際、ナッシュの「闇」が表に現れ、ベンジャミンは命の危機に見舞われたのだ。
 その様子をアンソニーとクリストファーは物陰から見ていた。その時のベンジャミンの様子を見ても、その恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったろう。自分までそんな目に遭ってはたまらないと、アンソニーはナッシュを刺激しないようにこの状況を切り抜けるべく、必死で思考を巡らせていた。
「あ、ああ……どうも……。き、昨日、誰かと会ったのか……?」
 前の日は、いきなり「闇」が表に現れてきたのだった。彼の「闇」は何の前触れもなく現れ、そうなると彼の身体能力は桁違いに上がる。今のアンソニーでは、一対一で戦って勝てる相手ではないだろう。
 幸いなことに、少なくともナッシュ本人には彼ら諜報員の存在は知られてはいないのである。何とかこのまま不信感を抱かせることなく立ち去らなければならない。だが、目を合わせようとせず、引きつり笑いを浮かべ、いかにもしどろもどろといった様子では、疑うなと言う方が無理である。
「俺は少ししか会わなかったけど…昨日、あんたと同じ赤騎士をこの辺りで見たぞ?」
 アンソニーの落ち着かない態度に少々疑問を抱きつつナッシュがそう答えた次の瞬間、彼は頭を押さえて苦しみ始めた。
「…っ! 何で、また……」
 彼の「闇」が表に現れる時の特有の症状である。前日と全く同じパターンだ。思わず茫然と他人事のように「やっぱりそうなるのか…」と呟いたアンソニーだったが、すぐに我に返り、逃げの態勢に入った。
「…なんて言ってる場合じゃない! すまん、俺は逃げる!!」
 そう言ってアンソニーが背を向けた瞬間、ナッシュが「闇」に変貌した。体に纏う闇の気の影響で、金の髪は闇に映える銀へと変わり、着ている服さえも、その暗黒の気を吸収して黒を基調としたものになる。…あるいは、そう見えるだけなのかもしれないが。
「…白々しいな…。一部始終見ていたのだろう?」
 この「闇」のナッシュ、ナッシュの心の奥深い場所で眠っている間にも、本体であるナッシュが何を見、何を聞き、何をしたか、全て把握しているのだ。そして、必要とあらば、本体であるナッシュ自身の意思を無視してさえ、表に出てくる。
「あ…いや、その……………」
 背後からでも、その声色と口調でナッシュの人格が「闇」と交代したことはわかる。思わずギクリと硬直し、背筋を冷たい汗が伝うのを感じながらも振り向こうとした時、ナッシュがアンソニーに足払いをかけた。
「まあ、待てって」
「ぎゃっ!」
 そのナッシュが出した足に引っ掛かり地面に叩きつけられたアンソニーは、情けない悲鳴を上げて恨みがましく「闇」のナッシュを睨み上げた。その目が、冷たく見下ろす「闇」のナッシュの紫紺の視線とぶつかり合う。
「な、何をするんだ!! 痛いじゃないか!!」
「何も逃げることはないだろう…? 俺を見て、バケモノか何かに遭ったみたいな態度をとるからだ…」
 そう言われてみれば確かに、いきなり逃げ出そうとしたのは少し失礼だったかもしれない…と思ったアンソニーだが、すぐに思い直した。そもそも、自分達は諜報員として彼を見張っているのである。いくら存在がばれているからと言って、そうそう顔を合わせていいわけがない。
 それにアンソニー自身、最近のことではあるが以前にも一度「闇」のナッシュと出くわし、背後から首筋に剣を突きつけられたことがある。それは「闇」のナッシュの単なる冗談ではあったのだが、さすがに肝が冷えた。前日のベンジャミンのことも思うと、彼の行動はどこまでが冗談でどこからが本気であるのかわからない。
「だ、だって! そもそも俺たちはあんたとそんな顔を合わせてはいけないんだ! それに…また剣をつきつけられてはかなわん……」
 なので思わずそう反論したアンソニーに対して、ナッシュは一瞬の動作で背中の剣を抜き放ち、アンソニーの鼻先に突きつけた。
「……こうやって?」
 その顔には、獲物を追い詰めた猛獣の余裕を思わせる薄ら笑い。
「ひっ! あ…いや、だから…」
 今の彼が本気でないことぐらいわかってはいても、いきなり目の前に現れた剣の切っ先に、つい情けない声が漏れる。
(落ち着け、自分、落ち着くんだ……)
 そう自分に言い聞かせ、冷や汗をびっしょりかきながらも愛想笑いを浮かべて剣をどかしてくれるように頼み込んだアンソニーの態度に、「闇」のナッシュは心底哀れむような小馬鹿にするような表情で剣を鞘に戻した。
「………冗談だよ。今日は夜桜を見に来たのだし…」
「あ……そうか……。よ…よかった……」
 その言葉を聞いて、アンソニーはあからさまに安堵の表情を浮かべ、ホッと息をついた。とりあえず、これ以上は嫌がらせをされずに済むらしい。
「確かに……ここの夜桜は見事だしな……。俺も…花見がしたくてさ……。つい、ふらふらと……」
「ああ…。なかなかのモンだ…」
 アンソニーの言葉につられるように、桜の木を見上げたナッシュだったが、ふと不思議そうな顔で、再びアンソニーを見下ろした。
「……お前も…?。……任務そっちのけでか?」
 目の前の男は、自分達、つまり「闇」のナッシュとナッシュ本体とを四六時中見張るという任務を負っていたはずではなかったか?
「いや…任務の都合上、なかなかそんな時間取れないから……でも、一度くらいは、と思ってさ……とりあえず、場所探しに……」
 任務を放棄するわけではないが、やはり花見は花見でしたいらしいアンソニーのその言葉に、ナッシュはアリア・マクドールもやはりやたらと花見をやりたがっていたことを思い出した。
「……そういえば、マクドールが何か…皆で花見がどうとか言っていたような…」
「あ、ああ……。アリア殿には、俺たちも誘われたんだ。皆でどうか、って…」
 そこまで言ってようやくアンソニーは自分がまだ地面と抱擁していたことを思い出し、立ち上がって騎士服の埃を払い落とした。

 ちなみに、アリア・マクドールにも、諜報員が一人ついている。エリックという名の、まだ若い青年だ。アリアはナッシュと行動を共にすることが多いため、必然的にナッシュ担当の3人とアリア担当の一人も顔を合わせることが多い。
 そのアリアも、彼ら諜報員の存在には気付いている。彼の場合は、その右手に宿した紋章の力によって、周りの気配を察知しているのだ。気配だけではなく、その場に残る思念や人の心の中までも視えてしまうのが、本人にも周りの人間たちにも厄介なところではある。
 そして、あろうことか、アンソニーはアリアから「いつも大変でしょう」とケーキの差し入れをもらったことがあるのだ。たまたまアリアと顔を合わせたのがアンソニーだったために彼が受け取ったのだが、そのケーキは「大きめに作ったから、皆で分けて食べて」とのことだった。見張りの対象から差し入れをもらう諜報員も諜報員だが、自分を見張っている人間たちに対して差し入れをする方もする方である。
 その際、アンソニーはアリアから、「どうせなら貴方たちも一緒に花見をやらないか」ともちかけられたのだ。

「…今日はアリア殿は一緒じゃないのか……」
「……そういえば、昨晩ここで別れてから会っていないな…。別に四六時中一緒にいるわけではないが…」
 確かにこの二人は共に行動することが多く、アンソニー達諜報員はその会話から何度も「実は恋人同士なのでは…」と疑ったことがあるが、その諜報活動の成果によると、ナッシュもアリア・マクドールも、女性の好みが実にはっきりしているのである。それを思えば、この二人が恋人同士などであるわけがないのだ。
 それゆえ、つい声に出して「…そうだよな。別に恋人同士というわけでもないみたいだし…」と納得してしまったアンソニーの額を、ナッシュは渋い顔をして勢い良く指で弾き、大仰に溜息をついた。
「当たり前だ。マクドールのヤツ…お前達まで誘っていたのか…」
 その「闇」のナッシュの仕打ちに額を押さえ涙目で「あんたにデコピンされる覚えはないぞ!!」と叫んだアンソニーの訴えをさらりと無視し、ナッシュは言葉を次いだ。
「…そのマクドールが来る気配は今のところ無いし…。どうせなら俺とお前で、下見でもするか…?」
 「闇」のナッシュが何の気まぐれでアンソニーを誘ったのかは、彼には知る由もない。ただ、その表情には、首を縦に振るより他ない、有無を言わせぬ迫力があった。
「あ…いや……ああ………わ、わかった………」
 とても「否」とは言えぬその無言の圧力に負け、剣で脅されるよりはマシだとつい彼の誘いを了承してしまうアンソニーであった。この後、身の毛もよだつような恐ろしい事態が発生することを、まだ彼は知らない。

実際チャットで展開されたのは、今回から先の話になります。アンソニー……バカだろう、お前………。そのバカさ加減が里見嬢及び黒ナッシュにはツボなのか………(笑)
ちなみに、このタイトル、候補の中に「どぎまぎメモリアル〜伝説の夜桜の下で〜」(略して「どぎメモ」)なんてのがあったなんてことは、忘却の彼方に放り投げているのでツッこまないでください(笑)

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